勝楽寺の歴史

 

西 暦 和 暦  
1233 天福1 開基 圓善御坊(三州安城村城主、安藤権頭が親鸞聖人の門徒交名牒にも名を連ねる和田門徒の祖である)
1273 文永10 越前国 今立郡 和田村に於いて勝楽寺創建
1308 延慶1 越前の異安心を平定し、本願寺三代 覚如上人より親鸞聖人の正向の御影を賜る
現在、10月の報恩講にのみ、聖人の御頂骨と共に御開帳される
1471 文明3 七世 圓金御坊が加賀国 能美郡 安宅村に移り、通称を安宅山とも言う
当時、能美郡一帯の中本山格であり、多くの末寺、道場を領し、今もなお彼の地に道場及び門弟を遺している
(また、圓金御坊は数少ない教行信証の書写を許された僧侶である)
1605 慶長10 十二世 了覚御坊は壇中、多くの門徒衆と朋に越後の国・新潟に移り町建てされたばかりの新潟の町と共に歴史を刻む
(これらの壇中の中には、越後まで勝楽寺を守った鎧や槍を現在も有している)
1869 明治2 勝楽寺にイギリス領事館がおかれる
明治12年に閉鎖されるまで、4人の領事が執務した
1880 明治13 大火により本堂が焼失する
1890 明治23 本堂竣工 現在に至る

  • 文永十年(1273)越前国今立郡和田村に於いて、圓善御坊(三州安城村城主、安藤権頭が親鸞聖人に帰依し、宗祖親鸞聖人の門侶交名牒にも名を連ねる・専信坊専海の門弟であり、和田門徒の祖である)によって開基された。
    文明三年(1471)七世圓金御坊(歴史的にも数少ない教行信証の書写を許された・現在、大谷大学の大切な歴史資料として保管されている)が加賀国能美郡安宅村に移り、通称を安宅山とも言い、当時能美郡一帯の中本山格であり多くの末寺、道場を領しており、今もなお彼の地に道場及び門徒を遺している。
    慶長十年(1605)十二世了覚御坊は壇中、安宅氏・高橋氏・石黒氏らの門徒衆(これらの壇中の中には越後まで勝楽寺を守った鎧や槍を現在も有している)と朋に越後の国・新潟に移り(町建てされたばかりの古新潟町と共に歴史を刻む)今日に至る。
    また明治にはいり、新潟が日本の中で開港を許された五港の一つとなり、勝楽寺は領内の一部をイギリス領事館にかしていた。
  • 戊辰戦争(北越戦争)

    新潟の統治権を得た米沢藩ですが、あくまで米沢藩が代表と言う形で独占支配したのではなく、同盟軍の支配と言うことでかつての奉行所を同盟の会議所とします。また色部の到着と前後して米沢軍は旧幕臣の安田幹雄や馬場八郎、また会津藩軍事顧問の肩書きを持つヘンリー・スネル等の指導を受けて、新潟の民衆を徴発(呼び集め)し新潟防衛の為の砲台の設営を開始します。この砲台は全部で5つないし4つが設営されたらしく、1番砲台が洲崎番所・2番砲台が本明寺裏・3番砲台が泉性寺裏・4番砲台が勝楽寺裏(スネルの宿泊地)・5番砲台が前新潟大学裏辺り?に築かれます(5番砲台には無かったとの説もあり)。これらの砲台は6月上旬辺りには完成したらしく、砲台完成後は米沢軍が前述の安田やスネル達から指導を受けて調練を行ないます。後日この砲台からの砲撃が新政府軍軍艦の摂津に命中弾を与えるなど、この米沢軍の調練は一定の成果を挙げました。
  • 時の鐘

    江戸時代においては不定時法(太陰暦)の時刻制度のもとで時を告げるため江戸では江戸城内に時の鐘が突かれていまた。やがて元禄以降に江戸市中にも時の鐘が設置され(9か所)全国にも普及していきました。
    新潟においても貞享四年(1687年)という早い時期に(元禄14年1701年説もあり)町会所(現在の第四銀行本店の場所)に時の鐘(梵鐘)が建設され以来、明治六年に午砲に変わるまで250年にわたり市中に時の鐘で昼夜、時刻を知らせ続けて来ました。この鐘はその後、勝楽寺の梵鐘として使われてきましたが戦争中、金属供出され失われてしまいました。その後のドン山での午砲、報時塔の「ボー」のサイレンなど、戦後は市役所の「いつくしみの鐘」など新潟の時報に絡む歴史は項を改めてご紹介したいほど豊かです。
  • 1867 慶応3 6月11日 アメリカ軍艦シャナドー号(公使ファルケンブルグ乗組)新潟に来航し勝楽             寺で新潟奉行と会見する。
        同年 7月9日  フランス軍艦ラプラース号(艦長アメット)新潟へ来航,勝楽寺で新潟奉行            と会見する